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邦画

剣劇スター 阪東妻三郎

若い方々には知らない名前だと思いますが、
俳優 田村正和の父だと言えばお分かりでしょうか。

本名 田村傳吉 1901年 (明治34年) 12月14日
現在の東京都千代田区東神田 木綿問屋 田村長五郎
長男として生まれ神田で育った。

兄、姉、母が次々に亡くなり父の事業が失敗して
倒産。

1916年(大正5年) 歌舞伎界へ
芝居好きが高じて歌舞伎界へ、市村羽左衞門邸では
門前払い、落ち込んで帰宅途中十一代目片岡仁左衛門
邸へ飛び込む、番頭の取りなしで、内弟子を許される。
歌舞伎界の古いしきたり等もあって苦労する、

1919年(大正8年) 映画界へ沢村四郎五郎一派の
エキストラに出る、
古い伝統や因襲にこだわる歌舞伎と違い、活動写真に
新天地を見つける。
坂東藤助~坂東要二郎を名乗る。

1921年(大正10年) 再び歌舞伎界へ
活動写真の現場でも下積みばかり、だから面白くない、
撮影所を飛び出して「阪東妻三郎一座」の看板を掲げる、
紆余曲折、苦労ばかりの後、一座は解散。

1923年(大正12年) マキノ・プロへ
阪妻第一回主演作品 「鮮血の手型 前後編」監督沼田紅綠

1925年(大正14年)9月 阪妻プロ創設
自主製作を始め、25才にして京都太秦に阪東妻三郎プロ
を設立。
映画「雄呂血」を製作、その型破りな殺陣は大評判となる、
剣劇スター阪妻の誕生である。

1931年(大正昭和6年) 阪妻プロ再結成

1937年(大正12年) 日活・大映へ
「血煙高田の馬場」「無法末の一生」
戦後になって、このあたりの映画から私は阪妻の映画を
見るようになった。

子供心にその豪快な殺陣と多彩な表情に惹かれて行った。

1949年(昭和24年) 松竹へ
「大江戸五人男」「王将」「破れ太鼓」

1953年(昭和28年)7月2日 「あばれ獅子」撮影中に高血圧
で体調を崩し、7月7日 脳内出血にて死去、享年51才。

阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、そのた当時の最高
の役者がそろって清水次郎長映画がじょうえいされた、
片岡千恵蔵の森の石松に阪妻の次郎長が声をかける・・・
何故か、このシーンは、子供だった私の脳裏から消えない。

人の上に立つ男は、どうあるべきか心に沁みる場面だった。
今、田村正和、田村亮兄弟にシンパシーを感じるのは、
包容力が有って強い日本のお父さんを無意識の内に求め、
そう有りたいと願う阪妻へのオマージュなのである。

主な主演作品
阪妻プロ作品
雪の渡り鳥
魔像

日活作品
血煙高田馬場
忠臣蔵 地の巻
忠臣蔵 天の巻

松竹京都作品
無法松の一生
国定忠治
王将
あばれ獅子

大映作品
東海二十八人衆

その他多数。

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