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娯楽

我が映画記

私が映画というものを知ったのは小学生の時、
教育の一環で小学校の講堂で全校生徒が集まって
教育映画を見たのが映画との出会いだったような気がする。

その前には、幻燈というものがあったように思う。
今のアニメの動かないものといえば良いのか ?

それより前、幼い頃は紙芝居、町からやさしい
おじちゃんが自転車に乗ってやって来た、
紙芝居の箱の引き出しからあめを取り出して器用に棒に
からめてくれる、
それを目当てに集まる子供も多かったのである。

物不足の時代、その飴さえ貴重なものだった。

後年、紙芝居のおじさんとある仕事先で出会うことになる、
勿論、私が高校生の頃に私の田舎へ紙芝居に来ていた人
だった。

都会とは随分かけ離れて、あらゆるものが数年遅れで回って
来る田舎のまた田舎暮らしは、井の中の蛙そのものだったと
言えよう。

我々の文明開化は東映時代劇と共に花開いた、
中村錦之助、東千代の介、大川橋蔵等が出現してスターとして
大きく羽ばたく時期と同じくした。

その上には、御大 片岡千恵蔵、市川右太衛門そうそうたる
役者達が辺りを睥睨していた。

映画全盛期を迎える。

笛吹き童子、里見八犬伝、
椅子にかぶりついてスクリーンに目を凝らした。

敗戦後の娯楽の少なかった日本に唯一最大の娯楽であった。

少し大きくなってわが町の映画館に足を運ぶ、その広い
観客席と切符売り場で買うお菓子が楽しみで町の映画館は
ドリームの世界そのものだった。

画面がカラー ( 当時は総天然色と名売った) 大型画面へと
移行する、
私の同級生に田舎の映画館の息子がいたので、映画の知識は
結構もたらされていた。

青年になるとアメリカ西部劇に惹かれて酔いしれる、
ご存知、ゲーリー・クーパー、ジョン・ウェイン、
その他、多士済々、その中に後年  第40代アメリカ合衆国
大統領ロナルド・レーガン -強いアメリカのシンボルがいた。

俳優当時は、ロナルド・リーガン -と呼ばれていた。

私の映画鑑賞歴は、
日本映画から始まって、アメリカ、フランス、イタリア映画
へと広がって行く、
そして、香港映画、韓国映画へと志向が深まるのである。

映画は、娯楽、娯楽の王様、その後来るテレビ全盛時代で一時
斜陽を迎えるが、映画をこよなく愛する映画人の努力と研鑽で
再び陽の目を見ることになる。

映画を上映する映画館の形態が、大衆に呼号する隆盛を迎えるに
至った、誠に喜ばしい限りである。

たまの休みに、シネマサンシャインの一番後ろの席で、ひとり
大型画面を眺める男が居る、万年映画青年の私である。

その時はひと言 声をかけてやってください、旅は道連れ世は情け。

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