遠い追憶の彼方 私がまだ手話サ-クルに関係のなかった頃、
目の大きい体格の良い若い男がひとりで店に入ってきた。
いやに目つきがきつかった、見開いた目は私の心を見透かす
ようにジッと私の顔を凝視していた、無表情が薄気味悪かった。
店を開けて間のない掃除の終わった頃ウエイトレスのA子が
出勤前の時間だった。
彼はがらんとした店内のカウンタ-に腰を下ろしてメニュ-を
手に取った、無言のままである。
私はコップの水とお絞りを差し出した、「何に致しますか ?」
カウンタ-の上、壁に表示しているコ-ラ-を指差して、
クグモッた声で、「コーラー!」さすがの私も気がついた。
(この兄さんは、聾唖者 (聴覚障害者) なのだ ?)
当時、手話の出来ない私は、話しかける術を知らなかった、
やがて彼は代金を出して店を後にした。
ふたりは無言のままだった、その風体だけを見るとチンピラと
勘違いするほどの鋭い目をしていた。
後から理解する事になるが彼らは言葉を話せないだけに普通人と
コミュニケ-ションが取れない、車を運転しても殊更周囲に気を
使う必要がある、だから視線が大事になってくるのである。
だから本能で目が鋭いことが分かった、彼は知り合いの自動車
修理工場で働いていた、私が手話を覚えサ-クルに参加したことで
彼ともう1人、彼より若い同郷の聴覚障害者の青年と交友が始まる
ことになる。
四国は宇和島の山間の町から八幡浜に出てきていた、
「不幸ではありませんか ?」私の問いかけに「不幸では有りません
少し不便なだけです !」 いつか別ブログに紹介したその人である。
知り合うほどに心の優しい男であることが分かった、こうして
手話サ-クルと聴覚障害者との交流が始まったのである。
私が松山へ出たことで、私より熱心なより以上素晴らしい会長が
育っていく、彼等の尽力で手話劇が誕生した、招待された私は
涙が出るほどの感激を味わった。
彼は大阪へ向い、歳の若い後輩は地元宇和島で家庭を持った。
松山へ出た私は精神的に、物質的にも貧乏して苦労した、彼らとの
交流は年賀状のみとなってしまったのである。
♪ ぼくらはみんな生きている
生きているから歌うんだ
ぼくらはみんな生きている
生きているから悲しいんだ
・・・ ・・・ ・・・♪
♪ 岡山大学「手のひらを太陽に」(手話歌)
私は今感動し、しばし追憶に耽っている !
この岡山大学こそ、その医学部こそ私たちの原点、
先生はじめ、たくさんの人々にお世話になった。
岡山大学の学生達の手話にめぐり合う喜びに
ひたっている。
白衣姿で不自由な人のために頑張っています。
感謝。