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雑談

見上げるスターからの便り

ませた子供だったなとつくづく思う、

私がまだ小学生の頃、日本映画は興隆期に向かっていた、
東映では時代劇の片岡千恵蔵、市川右太衛門、この両御大が
日本映画界を牽引していた。

知恵蔵御大の息子はJALの社長、右太衛門御大の次男は
現在、日本映画界の重鎮、北大路欣也である。

その後、大映では若尾文子とコンビを組んでスター街道驀進
の菅原謙二が人気を博し始めた、特に柔道もので若者のハート
をつかんでいた。

ふたりは結婚すものとファンは想像していた。

当てにしていなかったが小学生の私は菅原謙二に手紙を出した、
ところが、直筆の返事が返って来たのである。

当時の見上げる手の届かないと思っていた菅原謙二からである。
飛び上がって喜んだことは言うまでもない。

ところが、子供心に頭を抱える事態がおきた ?
ふたつ上の兄の元にも菅原謙二から手紙が届いたのである。

それも同じ内容の文面、ただ不思議なのはコピ-器などのない
時代である、菅原のお兄さんは、どちらかの手紙を見ながら
書いたに違いない、そう思うと尚更嬉しくなって彼を応援した。

菅原謙二と云えば柔道もの、最後には悪人を投げ飛ばして完結、
私が大人になって高倉健の任侠もの、残狭ものに嵌ったのも、

理不尽な悪党に辛抱して、そして我慢した末、堪忍袋の緒を
切って敵地へ乗り込み悪党どもを成敗する、勧善懲悪 !
単純だが日本人好みの物語に拍手喝采、ジ-エンドとなった。

映画の中の悪人は、悪党らしく面構えからして悪い人相をして
いた、それに比べて現代の悪は善人ぶっているが、どうして
どうしょうもない悪が雁首そろえている。

この少年の頃、天下の大スタ-菅原謙二から直筆の手紙を貰った
意味は大きかった。
(付き人の書いたものかもしれないが、当時は素直に受け取った)

島国四国の片田舎で手紙から受け取る勇気は比較するものがない
起爆剤となった。

少年の日の私と人気俳優菅原謙二の縁は、私に不正に向う柔道家
との縁を沢山もたらせた、不思議な因縁が重なるのである。

時代の流れといえば仕方ないが、せめてもう一度、あの銀幕に
想いを馳せてみたい。

菅原謙二と若尾文子 ふたりのそれぞれの結婚には、結婚でき
なかった二人に何故か悲しくなった事を思い出す、
それほどふたりに想いを寄せていた少年だったのである。

二枚目スターとして現代劇を中心に多くの映画に主演、
柔道3段の腕前もあり、柔道家の役が多かった、想像した
ように若尾文子とのロマンスが話題となった。

昭和48年新派入りして「明治一代女」「滝の白糸」等の
名作に出演、水谷八重子亡き後は水谷良重2代目水谷八重子、
波乃久里子、安井昌二と並び新派4本柱となって重きを為した。

風雪講道館(1955年 大映映画)
講道館四天王(1955年 大映映画)

少年の頃に見た講道館柔道映画が強烈に記憶に残ったと
云うことである。

日本の舞踊家、フラメンコの第 一人者
小松原 庸子(こまつばら ようこ)は、菅原謙二の実妹である。

懐かしき謙兄 !  綺麗だったよ文子ちゃん !
ファンってどうなんだろうね  !?

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