私がはじめて映画を見たのはいつのことでなんと言う題名だっただろうか、
私が育った村は、戸数250軒の半農半漁の寒村で生活は貧しかった。
物心ついた時には、映画を見る機会の少ない環境だったとも云える。
気がつくと村の青年団が町の映画館とタイアップして巡回の映画を上映して
いた。
その後、友達の父が芝居小屋を建てて、一座を呼んで興行を打っていた、
家族主体の一座は何日間も居座って芝居を打つことも有った。
そこには、役者と田舎の人間との触れ合い、交流もあったようである。
何々一座、興行主の家族が村中に触れ回って芝居へ呼び込んでいた。
芝居だけでなく時には浪曲等の演目もあって、田舎ながら結構外の世界との
交流があったのである。
その後、映画を専門の映画館として一世を風靡することになる、
家族が担当を分け合って宣伝に務めていた、
同級生は映写技師をやっていたと思うが、妹たちは農協の村内放送を使って
見事なアナウンスを披露した。
勿論青年団主催による映画も上映されていたがだんだん下火になって行った。
我が村では教育の一環で、学校でも教育映画を上映していた。
時には当時子供達を熱狂させたアメリカ映画ターザン も上映されたのである。
その鮮烈な記憶は、この歳になっても消えることはない、
現代の子供達がウルトラマンやアニメ映画に夢中になる気持ちが充分分かる。
ところで、映画をはじめて見たのは何時だったか ? その題名が何だったのか
思い出せない、
様々な状況を考えると、まだ小さい頃に見たのではなかったか、
だから、記憶に残っていないと言うことかもしれない。
今時の映画と違って、そのストーリーは単純明快だった、
時代劇、現代劇とも勧善懲悪のめでたしめでたしで最後はハッピーエンドで
終わっていた。
複雑なストーリー展開になるのは社会に犯罪が増加するようになってからである。
社会現象と映画の興隆、衰退は、何か因果関係があるのかもしれない。
映画は、情緒教育には適している、人格形成に占める意味と割合は大きい。
日本航空業界の勇、JALの片岡社長の父君、片岡千恵蔵、大河内伝次郎、
渋い演技で銀幕を引き締める、北大路欣也の父 旗本退屈男の市川右太衛門、
長谷川一夫、敵役 月形龍之介、 次の世代を引き継いだ、東千代の助、
中村錦之助、
現代劇では、
佐分利信、森雅之、中井貴一の父 佐田啓二等の懐かしい名前が蘇って来る。
我が青春のスターは、
高倉健、石原裕次郎を筆頭に、マイトガイ 小林旭、そうそうたるスターが
ひしめいていた。
その横には、可憐な、妖艶な女優たちが彩りを添えていたのである、
その女優陣の紹介は次回に譲る。
映画は、我が青春、明日への希望、生きる活力源。
私の人生は、映画抜きには語れない、
映画館で青春を偲び、明日への希望を模索する私がいる。